昭和48年10月13日 朝の御理解



 御理解 第33節
 「お供え物とおかげは、付きものではないぞ。」

 金光様の信心は、お供え物の事は言われない。幾らあげるとか、幾らあげねばならんと言う事は言われない。それが金光教の有難い所だと言った様な人がありますけれども、それは私は間違いだと思う。お供え物とおかげは、成程付きものではないかも知れないけれども、おかげとお供え物は絶対付きものでなければいけないと。お供え物とおかげは付きものではないけれども、おかげとお供え物は、絶対不離な物でなからなければ、次のおかげは頂けんと思うですね。
 そこでそのおかげの事です、信心をしておかげを受ける。そのお礼が印になって表れるのがお供えである。それでどの位おかげと思うておるのか感じておるかと言う事が問題になって来る。ですから本当におかげを実感すれば、実感する程、願った事が成就した事だけのおかげではない。それこそ願わんでも、頼まんでも頂いておるおかげがわかって行くという、其処ん所に信心がある訳です、信心が解るというのは、そういうおかげの中に生かされて生きておると言う。そう言う事が解ると言う事が信心なんだ。
 ですから有難い勿体ないという生活が出来る。その有難い勿体ないの度合いがです、お供えとなっ表れて来る。そう言う私はお供えになって来る時に、所謂限りないおかげが頂けて来る。お供え物とおかげは付きものではないけれども、おかげとお供えは付きものでなからなければならない。是は言葉の綾とか、そう言う物じゃないです。だから此処ん所の、お供えとおかげと言うは反対の方へこうやって、おかげとお供え物は付きものじゃと。それが金光様の御信心です。
 そしてそのおかげをおかげと愈々解らせて貰う。だから愈々お供えも垢抜けして来る。ね。愈々お供えも垢抜けして来るから、おかげも又愈々垢抜けして来る。もう限りなく此処ん所がね、おかげを頂いて行く。おかげを頂いて行く道とはそう言う事なんだと思うですね。御理解第三十一節に、信心する者は木の切り株に腰を下ろしても、休んで立つ時には、礼をいう心持ちになれよと、その心持ちがです。
 例えばお供えになって現される。三十二節に、女が菜園に出て菜を抜く時、地を拝んで抜く様な心になればおかげになる。又それを煮て食べる時に、神様頂きますと言う様な心あらば、あたる事なし。此処も矢張り地を拝むと言う事でも、神様頂きますと言う事でも、是は感謝の表現である。その表現がですです、言葉だけでもない態度だけではない、それが言うなら有難い、それを愈々有難いと解らせて頂く所にです、どうかしなければ居られないという働きが生まれて来る事になるです。
 金光様の信心は、何処までもだから信心が解るという事は、神様のおかげが解ると言う事。おかげが解ると言う事に対して、神恩報謝の心というその神恩に対して、どうかせなければおられない。そういう生活が信心生活だという。只心に思う時さえすれば。勿論心に思わなければならないけども、それがです形に表れてくるその姿がいわばお供えである。おかげそれを実感するから、だからそこに奉謝の心と言う物が表されて来る。だからおかげとそのお供え物は。
 是は絶対に付きものじゃないじゃなくて、付きものであらねばならないかと言う事。本当に例えば、信心が解れば解る程です、それこそあのう食べる物を食べん様にしてでもです、身を削る様にしてでも、例えばお供えをなさっておる方達があります。信心が愈々解って行っておる印です。有難いという思いが、そうして表されておるのです。今日は其処ん所を解って頂いた。
 金光様の御信心は、解れば解る程、お供えは愈々さして貰わねば居られない。しかもそれは、信心が垢抜けして来れば、垢抜けして来る程、お供えも垢抜けして来るんだと言う事です。お供えすればおかげが頂けるという行き方の宗教も無いじゃありませんですね。けども金光様の御信心は、そうでは決してないです。お供えせねばおかげが受けられんちゅう事はないです。けれどもおかげを受けるんです、言わばおかげを解らせて貰うのです、おかげを実感させて貰うのです。
 そこから自ずと神恩報謝の心と言う物は、愈々厚う深うなって来るんです。だからお礼参拝もさして貰わねば居られんのであり、お供えも又させて貰わなければ居られないと言う事になって来る。こん度御本部のああして御造営、教主様の奥城の造成、もうそれこそどれだけお金が掛かったか解らんという程しのお金がどこから出たのか宗教界で問題になる程です。金光教という信心な、言わば御造営があるから、教会に割り当てて来る訳でもなからなければ、それを要求しする訳でもないのにです。
 それが自然と集まって来ると言う事。それが事実であるとするなら、大した宗教だと言わば海外その、日本ではない宗教家の方達がね、言わば驚嘆の目を見張っておると言う事です。幾らというて金を出さねばならんと言う事でもないのに、あれだけの事が出来て行くと言う事、それは例えばお供えものとおかげは付きものではないという宗教だからだ。けれども確かに、おかげを金光教の信心によって、受けておるおかげを実感する。信心の道を教えを頂くと言う事がです。
 ああいう大変な事が、言わばもう楽々と出来ておるという感じです。皆んながおかげを頂いて、そのおかげを実感し、又おかげを受けておる事を解らせて貰ろうてです、それには何とかして応え奉らなければ居られないと言う。その応えた姿があの御本部の御造営なんです。まあ合楽の場合っだって同んなじでしょう、私がああ御造営に幾ら掛かるけん、さあしっかり頑張って下さいよとなんてん言った事一辺も無いでしょう。それでもまあ楽々とまではいかんにしてもです。
 まあ楽々と言えるでしょうね。借金を取ってもまあ借金が楽々と払えておる。例えば百円払えば良いのは二百円払うておる程しに、楽々とおかげを受けておる。誰あれも此処ではなら、さあ御造営だから一つ、頑張ってお供えして下さいよと言う様な事は、そう言う風も私は言わん。そういう意味でです合楽の場合はね、お供え物とおかげは付きものでは無い事を、良く解って居るけれども。
 おかげとお供え物は付きものであると言う事を何時の間にか。皆さん解って行きよんなさる印なんです。だからそれがもっともっと、垢抜けしなければならないと言う事です。おかげを頂かんならんからお供えをするじゃなくて、おかげを頂いておるから、そうしなければおられないと言う物が、すっきり皆さん変わって参りますとですね、おかげが変わって来るです必ず。おかげは頂かんならんから。
 是だけお供えしよると言うのは汚いですまいうならば。けれどもおかげを受けて居ると言う事がです、こうしなければおられないと言う事になって来るから美しい。だからそう言う風な心の状態にすっきりなって来りゃの、成程おかげはすっきりと言わば、麗しいものになって来るです。だから愈々おかげと実感させて貰えれる。信心をもっと深く広く解らせて貰わなければならんと言う事になりますねですね。
   どうぞ。